2025年04月11日
女学生の風船爆弾
今年は戦後80年とマスコミの記事が目立つ。
3月24日の毎日新聞9面 文化欄に見た。
1944年11月~45年4月ごろまで、
9300個を超える巨大風船が10代の女学生によってつくられた。
和紙をコンニャクのりで貼り合わせて、水素ガスを詰めた。
旧日本陸軍の兵器である。
細菌など生物兵器の搭載も検討されたが、
実際には、爆弾や焼夷弾が積まれたという。
偏西風に乗せてアメリカ本土をめざし、
約1000発が到達し、オレゴン州で妊婦と子供6人の死亡した。
それらの作戦は「登戸研究所」で行った。
「第九陸軍技術研究所」が正式名称という。
最盛期は建物100棟、1000人近くが働いたとある。
戦後、軍は証拠隠滅のため研究資料は焼き払い、
所員にかん口令を敷いた。
そうして無かったことにされた歴史だったが、
40年以上経て一人一人の手で掘り起こされた。
現在、明治大学キャンパス内に
「平和教育登戸研究所資料館」がある。
尋ねてみたい資料館である。
そうして、戦争は起こしてはならない。
3月24日の毎日新聞9面 文化欄に見た。
1944年11月~45年4月ごろまで、
9300個を超える巨大風船が10代の女学生によってつくられた。
和紙をコンニャクのりで貼り合わせて、水素ガスを詰めた。
旧日本陸軍の兵器である。
細菌など生物兵器の搭載も検討されたが、
実際には、爆弾や焼夷弾が積まれたという。
偏西風に乗せてアメリカ本土をめざし、
約1000発が到達し、オレゴン州で妊婦と子供6人の死亡した。
それらの作戦は「登戸研究所」で行った。
「第九陸軍技術研究所」が正式名称という。
最盛期は建物100棟、1000人近くが働いたとある。
戦後、軍は証拠隠滅のため研究資料は焼き払い、
所員にかん口令を敷いた。
そうして無かったことにされた歴史だったが、
40年以上経て一人一人の手で掘り起こされた。
現在、明治大学キャンパス内に
「平和教育登戸研究所資料館」がある。
尋ねてみたい資料館である。
そうして、戦争は起こしてはならない。